台風の記憶

毎年,彼岸と盆の3回の行事だが,いつも供養は昼までに済ませて,後は昼食の席でのおしゃべりとなる。互いの家族の安否を尋ねるのは常だが,その内,今回は先日の台風のこともあって,子供の頃に体験した洪水に話しが及んだ。
ぼくは小学生のときに家が床上浸水した伊勢湾台風の印象が鮮烈で,今も台風のニュースを聞くたびにそのときのことを思い出す。箪笥の引き出しの下から2段目まで浸水したこと,リンゴ箱を縦にしてその上に畳を載せたこと,祖母に背負われて近くの学校まで避難したこと,その途中祖母の身体が胸まで洪水に使っていたこと,避難先の学校の体育館で2泊し乾パンや金平糖を食べたことなど多くの場面が明瞭に思い浮かぶ。
昼食のときこのことを話すと,姉は伊勢湾台風よりその2,3年前の台風のことをしっかり覚えていて,台風のせいで修学旅行に行けなかったことが悔やまれると言い出し,どうも伊勢湾台風の記憶はあまりないようだった。
ぼくにとっては非常に強烈な記憶が残っているできごとが,同ように体験したはずの姉にはほとんど記憶されていなかったことにたいへん驚かされた。
ウィトゲンシュタインや独我論を持ち出すまでもなく,人が感じ取る世界はそれぞれ固有で,記憶はその中で熟成されるものだと,今回の思い出話で納得させられた感じがしてたいへん楽しかった。
上の写真は,待ち合わせのとき道端に落ちていた小枝で,魚の干物や蛇と勘違いして,その場で少し話題になった。だが,これも次の墓参りのときに,誰の記憶に残り,覚えていてもどれだけ変貌したものになっているのか,聞くのが楽しみだ。
| 「亜空間」の現象の周辺の周辺 | 2011.09.23(Fri)20:03 | Comments0 | Trackbacks0 | 編集 | ▲